劇評『メガロピンク'96』
古典芸能の世界は別として、今の時代、つくづく資質だけではやっていけないのだなと思わせられることが多い。現代は方法が問われる時代なんである。資質っていうのは言い換えれば才能とか素質だ。つまり一人の優れた資質を持った役者の存在だけで成り立つほど、今の演劇は素朴な芸術じゃないってわけ。これは別に演劇に限った話じゃなくて、文学だって同じこと。資質を如実に示す文体だけで現代文学として成立させられる小説家は少ない。
とりあえず、資質は二の次。資質に頼るばかりの舞台は失笑をかうことになる。なぜなら、資質そのものを方法論なく披瀝すれば、たいていの場合自意識のズルむけにつながっていくからだ。
「あたしには(きれいなまま引退したグレタ・ガルボの気持ちが)わかるよぉ。だって、あたしもグレタ・ガルボも月に選ばれた女優なんだもん」という台詞を市原悦子が発する時、それが諧謔というウケを狙った方法論に基づいて書かれた戯曲で、悦子もまたその認識を持ち合わせていたのなら、わたしたち観客は安心して笑いもしよう。が、それがもしも市原悦子の本気ならどうか。笑うどころの話ではない。当惑するしかないではないか。
「皆既月食の間だけ人間に変身できるカタツムリたちが夢見るユートピア・メガロピンク」って筋立てにしたって、これが何かのパロディであるなら安心して観ることもできようが、月に憑かれたカタツムリだの、メガロピンクだのが、もしも作り手の本気のメルヒェンならどーする。やはり当惑するほかないではないか。
でもっての、悦子の歌なんである。