エマニュエル・ボーヴ『ぼくのともだち』(白水uブックス)解説
小説のなかに住んでいるダメな人が大好物だ。ダメな人の目で世界を見るのが楽しくてならない。ダメな人は、おうおうにして、ちゃんとした人がちゃんとした社会生活を送るにあたって守っている基本的なルールを守らない、解さない。独自のルールで世界を歩いている。そんなダメな人の目を通して、常識やら慣習やらに縛られた世界を眺めなおしてみると、なんだか無性に可笑しくなってくるのだ。
わたしが「現実」と思っていた世界こそが、足元がぶよぶよおぼつかない共同幻想の産物にすぎず、ダメな人が自分ルールで歩いている世界のほうが生々しい手ざわりのする唯一無二の現実なんじゃないのか。ちゃんと学校に行き、ちゃんと働いて、ちゃんと結婚して、ちゃんと子供をつくり、ちゃんと死んでいくしかない常識人のほうが、社会が作ったルールに思考停止状態で乗っかってる分、実は嘘くさい現実を生きているんじゃないのか。そう思うと、自分も含めたそこそこちゃんとした人たちのことが、ちゃんちゃら可笑しくてならなくなってくるのだ。
とはいえ、ダメにだっていろいろある。「凡庸の罪」を体現するフローベール『ボヴァリー夫人』の寝取られ亭主シャルル、感受性が鋭く自意識過剰ゆえに同じ苦悩を堂々巡りするトーマス・マン『トニオ・クレーゲル』のタイトルヒーロー、宇野浩二の『屋根裏の法学士』の主人公のような布団から出てこない不潔な怠け者、女に執着しすぎて奇行を繰り返す近松秋江の『黒髪』の主人公、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』の夢みる夢男くん型ダメ男の典型などなど。いろんなタイプのダメ人間が文学の世界には棲息していて、読む都度、そこそこちゃんとしているわたしに自分が見ている世界の嘘くささを示唆してくれるのである。
で、そんなわたしが、同好の士と「小説のなかのダメ人間トーナメント戦」を行うのなら、是非とも自軍にいてほしいお気に入りのキャラクターが、エマニュエル・ボーヴ『ぼくのともだち』の〈ぼく〉ヴィクトール・バトンなのだ。