ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』(新潮社)
ジュリアン・バーンズ、あなたもなのか。読み終えて、思わずそう呟いてしまったのである。何かといえば、それは「成熟」にまつわる話。アメリカでは、ピンチョンやジョン・バースのように、やんちゃな(実験的ともいう)作風で登場した小説家の多くは、死ぬまでその姿勢を変えようとしないが、イギリスの作家はちがう。年をとると、必ずといっていいほど成熟へと向かうのだ。
現役作家におけるその代表が、イアン・マキューアン。若い頃のマキューアンの風貌はこれまた若かりし日の高橋源一郎に似ており、猿に恋人を寝取られる青年の話みたいな青臭いニューロティック(神経症的)ロマンを好んで書いていたくせに、『アムステルダム』でブッカー賞を受賞する前あたりから大人の小説へと移行。六十四歳のいまや(本稿執筆時は、2013年)風貌・作風ともに現代イギリスを代表する巨匠感満点の作家になっているのだ。
そういうイギリスの作家を非難しているわけでは、もちろんない。成熟以降のマキューアン作品はどれも愛読しているし、むしろ初期短篇集より好きなくらいだ。とはいえ、まさかバーンズまで成熟に向かうとは思ってもいなかったので、ものすごく驚いちゃったという話なのである。だって──。
小説と評論をアクロバティックに合体させた『フロベールの鸚鵡』。ノアの箱舟に乗りこんだ密航者による、漂流生活のリポートとノアの欠点の告発からなる第一章をはじめ、物語としての歴史の洗い直しぶりが愉しい『101/2章で書かれた世界の歴史』。ブリテン島の下に位置する小さな島にイングランドの大規模テーマパークを建設し、偽物が本物化していくさまを描いてアイロニカルな『イングランド・イングランド』。などなど、マキューアンより二歳年長なのに、奇想天外な小説ばかり書いてきた御仁なんですから。そのバーンズですら、ついに成熟……。すごいな、英国文学界。
その問題の小説のタイトルは『終わりの感覚』。