山下澄人『ギッちょん』(文春文庫)
山下澄人の『緑のさる』を買って読んだのは、書店で目にして「いいな」と思ったからであり、「いいな」と思ったら、わたしは本を開いたり値段を確認したりせず、積んである上から二冊目を引き抜くと、そのまま真っ直ぐレジに持っていくのが常なので、その時もそうしたのだった。読んでみると、それはとても不思議な小説だった。“いつのまにか”どこかにいて、“なぜか”としか説明しようのないヘンテコな出来事に遭遇する〈わたし〉のいるこの小説世界では、実際に起きたことと脳内で考えたことや、現実と夢や、〈わたし〉と誰かが地続きになっている。それでいて、少しも読みにくくない。読みにくいどころか、どんどん面白くなっていく。
内田百閒の『冥途』に入っている「白子」を思い出したりもした。ただひたすらむしゃくしゃしている〈私〉が町に出て行くと、なんだかひどく混雑していて、そこかしこに黒い犬がいることにさらにむしゃくしゃを募らせていると、いきなり「神様はいらっしゃいます」と話しかけてきた若い女にいざなわれ入っていった家で子供の白子を踏み潰してしまい、それがもう可笑しくて可笑しくて大笑いしたという唖然とするような話で、そのわけのわからなさに近しいと思ったのだ。
で、あまりに自由な語り口にショックを受けたわたしは、つい連載誌で書評を書いてしまったのである。そしたら案の定、つまらないことになった。小学校低学年生の作文のように自由で、小説を書く際のありていの(ゆえに、つまらなかったり窮屈だったりする)ルールを一切無視して書かれた『緑のさる』の面白さを論理で説明しようとしたって土台無理な話だったのだ。無理を通そうと思って、赤っ恥をかいた。だから、開き直るつもりはないのだけれど、三つの中篇を収めた作品集『ギッちょん』についてのこの書評だって、つまらない結果になることは目に見えている。作品が面白ければ面白いほど、書評はつまらなくなっていく。わたしにはその悲しい自信がある。