滝口悠生『愛と人生』(講談社)書評
マンネリズムな表現を、マンネリズムだという理由だけで退け、マンネリズムのマンネリズムたるゆえんや魅力を考えようと思わないまま、一顧だにせず、根拠もないくせに小バカにしていた自分を深く恥じている。たとえば、国民的映画と言われている『男はつらいよ』。一九六八年にフジテレビで放映された連続テレビドラマの好評を受け、翌年から一九九五年まで全四十八作撮られたこのシリーズを、わたしは一作も観たことがない。
「なんか、あれでしょー。テキヤの車寅次郎を演じてる渥美清が、マドンナに恋をしてはふられるってパターンが繰り返されるだけの映画なんでしょー。テレビ時代劇の『水戸黄門』や『遠山の金さん』もそうだけど、結末がわかってるものを見て何が楽しいんだかなあ」と、何様のつもりだったのか、思っていた。が、今、そんな自分の浅はかさこそを思い知れと、滝口悠生の作品集『愛と人生』の表題作を読んで、あごが胸にくっつくほどうなだれている。
〈「男はつらいよ」では毎回寅が旅に出て、主に旅先で知り合った女性に恋をして、最終的にふられるというパターンが踏襲される。マンネリズムというのはこのパターンの踏襲に他ならないのだが、言うまでもなく形式を見ることが映画を観ることのすべてではない。毎回旅に出て失恋をするその旅や失恋は毎回異なるし、人生というのはそういうものではないでしょうか〉
! まったくだ。Kさん、そうなんだよ。Kさんは移人称で書かれる作品は一発芸のようなものだから何作も続けられると飽きるって言ってるけど、わたしは飽きるということはなくて「作家がやりたいと思ってるかぎりはやり続ければいいんじゃないのかなあ」と幼稚な反論をしたもんだけど、この人が言うとおりで“形式を読みとることが小説を読むことのすべてではない”のだから、マンネリズムという皮を一枚むいたところに現れる作品ごとに異なる何かにこそその作品の生命みたいなものを汲みとっていっていいんじゃないの? 思わず、心の中で畏友である評論家(Kさん)に語りかけてしまったほど、この言葉に反省と感銘を覚えたのである。
で、誰なのか、そう語っているのは。