長嶋有『電化文学列伝』(講談社文庫)解説

なんでもかんでも「遊びにするために生まれてきた人」である長嶋有が、書評を遊びにしてしまった。小説の中に出てくる電化製品に着目して、書評家が瞠目刮目するような書評をものした長嶋有にトヨザキ感服つかまつり候の巻
豊﨑由美 2026.02.07
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 長嶋有は遊びにするために生まれてきた人である。「遊びをするため」ではない。「生まれてきたような人」でもない。「遊びにするために生まれてきた人」なのである。著書を出すたびに自腹を切ってまでオマケをつけたり、カバー裏に登場人物たちのその後の物語を印刷してみたりといった、読者サービスと連動する形での遊び心だけを指しているのではない。長嶋有のやることなすことが、全部、思わず知らず遊びになってしまうことが言いたいのだ。小説も、俳句も、ブルボン小林名義で書かれるゲームや漫画の評論も、すべてを遊びにしてしまう。仕事感ゼロ。なんだかもう、ただひたすら楽しそうなのである。

 しかし、遊びというと誤解する人がいるのは悲しいことだ。チャラチャラ、ヘラヘラしてて、無責任。それは「遊び人」であって、遊びではない。子供たちが大勢で遊んでいる公園かなんかに行って、観察してみるとわかるんだけど、遊びは思っているより真剣だ。ルールを守ったり、新たに作ったり、もっと面白くするために見直してみたり、楽しくなるためには最大限の努力や工夫を惜しまない。また、遊ぶには才能がいることも子供たちを見ているとよくわかる。しかし、その才能を大人になっても持ち続けている人は少ない。そういう稀有な人にかかると、つまり、だから、仕事だって遊びになってしまうのだ。

 というわけで、書評もまた、長嶋有によって遊びにされてしまったのである。『電化文学列伝』は、作中に出てくる電化製品の場面を中心に、小説(映画や漫画作品も対象にされていますが)を読み解くというスタイルの書評集だ。著者は本書の「まえがき」に、こう記している。

〈自作になされる書評で、僕が作中にしのばせた電化製品のことに触れてくれたものは一つもありませんでした。懐かしい固有名詞の用法に触れるときも「山口百恵」とか「麦チョコ」のことばかり。ほら、ここに「蚊取りマット」のことも書いたでしょう? というフラストレーションがあった〉〈誰も語ってくれないなら俺が語る!〉

 こういう発想は普通の大人の書評家からはまず出てこない。だから、普通の大人の書評家であるわたしの書評は「いかにも」な書評になる。「いかにも」という定型が遊びからほど遠いのはいうまでもない。物語、文体、プロット、人物造型、テーマ、視点を分析して、対象作品の魅力を抽出しようと努める書評には、電化製品が入り込む余地がない。たとえ存在に気づいたとしても、八百字から千二百字程度という小さなスペースの中で触れる余地が見つけられない。余地のないギチギチの場所で、電化製品は「どうでもいい」存在として却下されてしまう。

 余談だけれど、この本を読んで思い出したエピソードがある。『夕子ちゃんの近道』(講談社文庫)で第一回大江健三郎賞を受賞した公開記念対談でのこと。長嶋有は『安全な妄想』(平凡社)の「教養」という文章の中で、その時、大江から「フローベールをご存じですか?」と訊かれ、「あなたにエデュカシオン、サンチマンタールをおすすめします」とアドバイスされた件に触れ、それはそれは可笑しいエッセイに仕立てているのだが、このフローベールのやり取りの前に、ノーベル賞作家は、『夕子ちゃんの近道』に出てくるピンチハンガー(大江はそれを「洗濯物を干す時に使う四角いもの」と表現)の描写に触れ、「家内に読み聞かせたら本当によく描けていると言っておりました」と絶賛している(モノのたたずまいの説明に関して、長嶋有はたしかに的確で巧みだ。たとえば、本書中の吉田修一『日曜日たち』を取り上げた項における、リモコンの形状描写)。わたしは会場で対談を聴いていたのだが、その時の長嶋有の嬉しそうな顔が忘れられない。小鼻をふくらませていたという記憶すらある。

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